イタリアの首都でラツィオ州の州都であるローマのスタジオ・オリンピコを本拠地とするSSラツィオとASローマによるローマダービーはミラノダービーやトリノダービーを凌ぎイタリアで最も激しいダービーマッチと言われている。
激しいライバル関係はSSラツィオが設立された1900年から27年後の1927年にASローマが設立された際の成り立ちによるもの。つまりASローマが誕生した瞬間から両チームはライバル関係にあった。
イギリス人により世界各地にもたらされたサッカーは、イタリアではまずトリノのイギリス人によりイタリア最古のクラブが設立。そこからジェノバ、ミラノと次々とクラブが設立され次第に全国に広がっていく事になるが、イタリアサッカーの中心となったのはイタリア国内の他の産業同様イタリア北部の裕福なエリア。首都はローマであったが、王族・貴族・領主が多く暮らすイタリア北部がイタリアの産業界を引っ張っているというイタリアが統一された1860年から常に存在し続けるイタリアの抱える南北格差が、産業や街の歴史と密接に関係するサッカー界でもそのまま表れた形になっていた。
1900年に首都ローマで設立されたSSラツィオも同様で、インテル・ミラノがACミランから分離独立する前に設立され歴史を持つクラブであったが、27年間で4度の準優勝どまりとタイトルには手が届かないクラブだった。
そこで1927年に当時のファシスト政権が首都ローマに北部のサッカー強豪地域に対抗するクラブを作る事を画策。当時ローマにあった「SSラツィオ」「ローマンFC」「SSアルバ・オーダス・ローマ」「フォルティトゥード・プロ・ローマSGS」の4クラブを合併させ1つの強力なチームを作ろうとする。
しかしこの4クラブの内の1つで首都ローマのクラブの中では最も大きなクラブであったSSラツィオはそれに反発。そしてクラブの会員でイタリアサッカー連盟幹部のヴァカロ将軍の介入により、ローマの主要クラブとして唯一合併から免れ、その結果ラツィオを除く3クラブが合併する事に。政権の肝いりで合併されたクラブは首都ローマの名がつけられたASローマと名付けられた。
これにより両者のライバル関係が成立。またラツィオは元々ローマで最も大きなクラブであった事から富裕者層が集まり、その他のクラブからなるASローマには労働者層が集まる事となり両者の関係が明確になっていく。
さらにその後結果を残したのはASローマ、創設から14年後の1941/42シーズンに北部以外のチームとして初めてスクデッドを獲得。これは北部に強豪クラブが集まり当時サッカーの中心は常に北部であったイタリアサッカー界では大きな事件だった。
それに対して目立った成績を残す事が出来ないラツィオ。
古代ローマ時代から数え切れないほどの戦闘を繰り返してきたローマ人たちの血がそうさせるのか、設立時の背景による因縁やその後の力関係がそうさせるのか、両チームにとってこの試合が「試合以上の存在」となっていき両チームの対立関係がさらに激化していく事となる。
1973/74シーズンにラツィオもついにスクデッドを獲得し、その後両チームとも低迷期に入ることもあったが、どちらか一方が優勝を逃すと、そのもう一方がそれを祝うお祭りが始まるほどのライバル関係となっていった。
過去のリーグ戦では146回の対戦でローマが52勝、ラツィオが37勝、引分けが57とローマが大きくリード。非公式戦も含めた記録の残る180回の全対戦でもローマが67勝、ラツィオが50勝、引分けが63とローマが大きくリードしている。
しかしこの両チームの選手やサポーターにとってこの試合にかける情熱は凄まじく、常に激戦となり、ダービーウィークは首都ローマに住む人々に落ち着きと冷静さを失わせる様はまさにイタリアで最も激しいダービーマッチと言える。