ノース・ロンドン・ダービー


☆2016年7月11日 WSCスタッフ呟き☆

ロンドン北部に本拠地を構えるトッテナム・ホットスパーFCとアーセナルFCの両チームによるノース・ロンドン・ダービーはプレミアリーグで最も激しいダービーマッチの1つと言われています。

ライバル関係が生まれるきっかけ

トッテナムは1882年創設、アーセナルは1886年創設と両チーム歴史の長いクラブで、両チームの対戦は1887年。しかしライバル関係がはじまりノースロンドンダービーとなったのは1913年。アーセナルは元々ロンドン南東部のグリニッジ王室特別区 ウーリッジでそのチーム名やエンブレム、相性の由来になった王立兵器廠(ロイヤル・アーセナル)の労働者によって設立されましたが、立地上集客力に問題があった事からその1913年にロンドン北部イズリントン区ハイベリーに移転。このハイベリーはトッテナム・ホットスパーFCの本拠地ホワイト・ハート・レーンのあるハーリンゲイ・ロンドン特別区のトッテナムからわずか6kmほどしか離れていない場所。突然引っ越してきた相手を良い感情をもつわけもなく、またその年の対戦で2部のアーセナルが1部のトッテナムに勝利した事でライバル関係が芽生えるには十分でした。
そしてそれを決定づけたのは1919年。1部リーグのクラブ数が拡張されることになったが、その際に、このシーズン1部で最下位だったトッテナムが降格、2部の5位だったアーセナルが昇格という事になり、両者の関係が一気に激化したと言われています。

加熱していくライバル関係

わずか6kmのところに突然引っ越してきたクラブ。そしてその後も1950年代からの全ての10年間でリーグ優勝、FAカップ、リーグカップのいずれかのタイトルを必ず獲得するトッテナム、1960/61シーズンにはリーグとFAカップの2冠達成しています。
一方のアーセナルもリーグ優勝13回、FAカップ優勝12回とタイトルを重ねる強豪チーム。
両者のライバル関係は激しくなっていきます。
そして近年の盛り上がりに大きな影響を与えたのが2001年のソル・キャンベルの移籍。
後にイングランド代表にも選ばれたCBソル・キャンベルはトッテナムの選手。18歳でトップチームデビューを果たし、その後は長年トッテナムのの最終ラインを支えてきた選手。
それが契約延長にサインをせず最終的にはライバルアーセナルに移籍。しかも移籍金を全く残さないフリー移籍となります。当時のアーセナルはアーセン・ベンゲルの手によってプレミアリーグ屈指の存在になりつつある状態。そんなチーム状況も加わり、この行為をトッテナムのサポーターは強く批判。当時のトッテナムサポーターからのソル・キャンベルへのブーイングはとんでもない大きさでした。

ホワイト・ハート・レーンで優勝を決めたアーセナル

アーセナルは1970/71シーズンにトッテナムの本拠地ホワイト・ハート・レーンで勝利しリーグ優勝を決めています。
これがアーセナルにとって初めてのリーグ及びFAカップの2冠達成。この時のホワイト・ハート・レーンはとんでもない雰囲気となり、試合終了の笛がなると同時に両チームの選手はすごいスピードで控室に戻って行きました。
そして2003/04シーズン。無敗で強さを見せつけていたアーセナルは次の試合、引き分け以上で優勝が決定という状況になりますが、その次の試合がホワイト・ハート・レーンでのスパーズ戦となります。
このチームは結果的に通算49試合無敗という圧倒的なプレミアリーグ記録を持つことになるアンリとベルカンプの2トップに、ピレス、リュングベリ、ヴィエラなどがいたインヴィンシブルズと呼ばれたチーム。試合はアーセナルのペースで進みますが2-1となった試合終了間際にトッテナムがPKを獲得。そしてこのPKをトッテナムのロビー・キーンが決めると審判団はスグに試合を終了させます。このPKは微妙な判定でもあり、その不自然な試合の終わらせ方から「ソル・キャンベルがプレーしているアーセナルがホワイト・ハート・レーンで無敗優勝を決める事の危険性を審判団は考慮したのではないか」と噂される伝説の試合となります。
ちなみにソル・キャンベルは試合終了の笛と同時に一目散にロッカーへと下がり、アーセナルの選手が優勝を喜ぶ輪には加わりませんでした。

両チームの通算成績は、アーセナル75勝、トッテナム54勝、引き分けが49となっています。(2015/16シーズン終了まで)

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