ルール地方と呼ばれるノルトライン=ヴェストファーレン州にある都市、ドルトムントを本拠地とするボルシア・ドルトムントとゲルゼンキルヒェンを本拠地とするシャルケ04。ルール地方は古くは炭鉱で栄え、産業革命の進展と共に工業都市として急激に発展。20世紀中旬にはドイツにおける石炭と石油の中心都市となっていきました。
そんなルール地方を代表する2都市がゲルゼンキルヒェンとドルトムント。サッカーの発展がちょうどその炭鉱の街から工業都市として発展していった歴史とかさなり、共にブンデスリーガを代表する人気チームへとなっていき、ボルシア・ドルトムントは毎年観客動員数1位、そしてシャルケ04はそのボルシア・ドルトムントよりもクラブの会員数が多い事でも知られています。
この2都市はわずか20kmしか離れておらず、ドイツ国内で地域の覇権を争うダービーマッチとしてはこのルールダービーがオリジナル。ですから現地ではわざわざ地域名の入ったルールダービーとは呼ばず、単に地方・地域を意味する単語「レヴィア」を使い「レヴィアダービー」(日本語にすると地域ダービー)と呼ばれています。
お互い工業都市として知られる両都市を代表するクラブ。その特性から労働階級がクラブをサポートするという共通点もあります。それだけに両チーム共に熱の入れ方が桁違いです。
そしてそのお互いのライバル関係を表すエピソードとして有名なものが、シャルケ04の前の本拠地パルクシュタディオンとボルシア・ドルトムントの本拠地ジグナル・イドゥナ・パルク(ヴェストファーレンシュタディオン)に陣取るサポータースタンド。
この両スタジアムは1974年の西ドイツワールドカップに向けて建設されているので完成されたのはほぼ同時期。とはいえシャルケ04のパルクシュタディオンの方がわずか1年弱早く完成しました。この完成したパルクシュタディオンでシャルケ04のサポーターが陣取ったのが北スタンド。それを見たボルシア・ドルトムントサポーターは”彼らが北スタンドに立つのならば、我々は南スタンドに立つつもりだ”と表明し、翌年完成したジグナル・イドゥナ・パルク(ヴェストファーレンシュタディオン)で陣取ったのは南スタンド。ボルシア・ドルトムントサポーターも旧スタジアムでは北スタンドに陣取っていましたが、これをきっかけにスタジアム完成と共に南スタンドに引っ越し、今でも南スタンドに陣取っています。
ルールダービーが初めて行われたのは1925年。以降1927年までに行われた3回のルールダービー全てに勝利したのはシャルケ04でした。そして1936年にドイツ国内でトップリーグが始まると最初の8年間でシャルケが14勝、ボルシア・ドルトムントが1勝、引き分けが1とシャルケが圧倒。当時のドイツにとって工業と石炭・石油精製で栄えるルール地方の特にゲルゼンキルヒェンは最も重要な街の1つであったこともあり、その街を本拠地とするシャルケ04も圧倒的な強さを誇り、この8年間で4度の優勝を果たしています。
ボルシア・ドルトムントが初勝利を挙げたのがこの8年目の1943年。しかし第2次世界大戦後、全国規模のブンデスリーガが始まるまでに開催された地域でのリーグ戦オーバーリーガではボルシア・ドルトムントが圧倒。地域の覇権を握る事となります。
1963年にブンデスリーガが創設された後もしばらくはボルシア・ドルトムントが地域の覇権を握り続け1964年から1967年にかけて8連勝。1965年には旧西ドイツのクラブとして初めてUEFAカップウィナーズカップも制し、クラブの黄金期でした。
しかし1968年からシャルケ04が勝利を重ねるようになるとボルシア・ドルトムントは1972年に降格。しばらく対戦が途切れる事となります。
1976年にドルトムントが1部に復帰するとお互いのホームでは勝利するという展開が続きますが、96/97シーズンにボルシア・ドルトムントはチャンピオンズリーグを制覇。同じシーズンにシャルケ04もUEFAカップを制しクラブ史上初めての国際タイトルを獲得しました。
しかしその後再びボルシア・ドルトムントが低迷期に入るとシャルケ04が勝ち続ける期間が続きます。
そんな中で迎えた2010年9月19日のルールダービー。この試合で無名の小柄な日本人選手が2ゴールを決めボルシア・ドルトムントが勝利します。直近10年間で2勝しかできておらず、直近3シーズン勝ち星が無かったボルシア・ドルトムント。歴史を振り返るとそのサポーターにとってこの勝利がどれほど大きなものだったのかという事、そして無名の日本人選手香川真司がこの街でどれだけ愛されているのかという事が少しイメージできるかもしれません。
両クラブの対戦成績は過去96回対戦し、シャルケ04の35勝、ボルシア・ドルトムントの34勝、引き分けが22。かなり拮抗しています。